墨汁一滴 幻の4号発見!!!
今回「墨汁一滴 第4号」他、マンガ原稿を発見し寄贈いただいた、元石ノ森章太郎アシスタントの大瀬克幸さんにお話をお伺い致しました。
石森プロ(以下、石森):まずは今回の原稿が見つかった経緯を教えてください。
石森プロ(以下、石森):まずは今回の原稿が見つかった経緯を教えてください。
大瀬克幸さん(以下、大瀬):
石ノ森先生のところでアシスタントをしていた当時、自宅兼作業部屋のエアコンが故障して水が漏れてきました。エアコンの下に書棚があり、むき出しのダンボールが赤い錆び水で水浸しに、、、中の資料等もびしょ濡れになってしまい片付けようとした所、石ノ森先生に、「原稿を待っている担当者がいるから、まず仕事を片付けなさい」と言われ原稿を描き続け、ちょっとした時間に乾かそうとしていた所、石ノ森先生に「もう捨てちゃえ」と何回も言われ、それならもらっていきますよと。
水浸しでくっついてしまっていたので、石ノ森先生も私も箱の中身を確認していない状態でした。
辞めるときに地元の九州にまとめて荷物を送り、その箱も一緒に送りました。つい最近、実家の親から「卒業証書が出てきたけどそのへんにある荷物と一緒に送る?」と連絡が来て、捨てるなら送ってと頼んだ中にその箱がありました。
当時から中身を確認していなかったため、開けてみて当時のことを思い出しました。
墨汁一滴や原画がたくさん入っていてびっくりしました。卒業証書をいらないと言っていたら全て捨てられていたと思うので良かったです。
石森:大瀬さんはいつ頃アシスタントをしていたのですか?
大瀬:アシスタント期間は、昭和42年2月から10月くらいまでです。当時は、隣に永井豪さんがいて、彼がやめてからは私がスケジュール等も管理していました。まだ高校を卒業してすぐの18歳でした。
石森:石森:アシスタントになるきっかけは何ですか?
大瀬:石ノ森先生の大ファンだった友達とファンレターやイラストを書いて送り続けたところ、返事が来ました。ちょうど前のアシスタントの方が辞めるタイミングで呼ばれて上京しました。上京してすぐに永井豪さんらと同室で背景などを描き、初日から3日間徹夜でした。石ノ森先生は描くのが早いので、アシスタントの所にどんどん原稿が溜まって行くので、アシスタントは上手に書くことと同時にスピードが求められていました。その当時で石ノ森先生は、月600枚位の原稿を描いていました。
石森:石ノ森章太郎先生の人柄はどんな方でしたか?
大瀬:そうですね。怒ったのを見たことが無いですね。あとは、サイン会にお供したりした帰りに、ご飯を食べに行ったりしましたが、贅沢をしている印象は無いですね。
石森:石ノ森章太郎先生から教えられたことはありますか?
大瀬:しんどい時や苦しいときに弱音を吐くなと言われました。今の環境に感謝しなさいと。きっと食べるものもろくに無くてもマンガを描いていた石ノ森先生の今までの苦労と比べると、今の自分は、ご飯はあるし恵まれていると感じました。もちろん、石ノ森先生が弱音を吐いているのを聞いたことはありません。
石森:仕事をしているときは、どんな感じでしたか?
大瀬:普段は、そんなにこっちを向いてくれなかったです。先生の手が動くときは、あらかじめ描くものが決まっているときで、描いている間は、次の作品やストーリーを頭の中で考えながら描いていたので割と無口でした。真っ白の原稿の前で考え込むことは無く、机に座った瞬間からペンが止まることなく原稿を描きあげ、アシスタントの前にどんどん積みあがっていくほど描くスピードが早かったです。また忙しいときでも、落書きのように関係ない似顔絵を描いたりして、遊ぶ余裕のある人でした。今のペースだと、8時の締め切り前の7時に終わらせられると判断すると、少しゆとりを持って別のイラストを描くなど遊ぶ余裕を作る人でした。早くしろと急かされる事はありませんでした。出版担当の人に「先生早く仕上げてください」と言われているのも聞いたことが無いです。担当の方も後ろで穏やかに待っていました。スケジュール管理は先生がアシスタントに任せていたが、常に気にかけてくれていました。
石森:石ノ森章太郎先生のすごいと感じるところはどんなところでしたか?
大瀬:普通、今現在か少し先の未来を考えるが、石ノ森先生の場合、5年先、10年先を考えているので、先々で流行るものを常に考えて描いていました。また、子供が生まれてからは、たまに子供の顔を見に行くなど父親の一面もありました。ただ、その前にすごい勢いで原稿を描いて大量にアシスタントに渡してから、子供をあやしに行っていましたので、その間、残った私たちアシスタントは必死に背景など仕上げてました。
多忙な時期の石ノ森章太郎先生のアシスタントを経験し、偶然にもいくつかの原画や墨汁一滴を保管し寄贈していただいた大瀬さん、貴重なお話もお聞かせいただきありがとうございました。
『墨汁一滴(ぼくじゅういってき)』は石ノ森章太郎が中心となって発行していた〝肉筆同人誌〟だ。石ノ森が宮城県立佐沼高校に入学した1953年の夏に創刊され、断続的に10号まで発行された。最終号は石ノ森が世界一周の旅に出る前年の1960年9月1日に発行されている。石ノ森のプロデビューは1955年なので、プロとして活躍しながら5年続けていたことになる。さすがに9号と10号は多忙だったため表紙イラストと本文1ページのみの参加になっている。
〝肉筆同人誌〟とは、実際の原稿を製本して作られた同人誌のことだ。当然、各号は世界に1冊しか存在していない。それを全国の会員が郵送で順番に回覧していくことになるわけで、現存するのは2号、6号、7号、8号、9号、10号の6冊であった。今回、様々な偶然が重なり、奇跡的に4号が発見されたことについての詳細は別記事を参照していただきたい。未発見の創刊号、3号、5号がどこかから出てくることをあきらめずに期待したい。
『墨汁一滴』の誌名は正岡子規の随筆から取られた。石ノ森の筆によれば「中学生になったばかりの頃、近所の子どもたちを無理矢理に〝作家〟に仕立て、マンガの同人誌を作った」「『墨汁一滴』としたが、土台そんな趣味のない即製〝作家〟たちでは、長続きする筈もなく、2号め位の途中で〝廃刊〟となった。」ということだが、最初の『墨汁一滴』はほとんど石ノ森の原稿で占められた個人誌のようなものであった。
そこで近所の人間を集めるのではなく、『毎日中学生新聞』『漫画少年』の投稿者から描き手を集めようと東日本漫画研究会を設立し会員を募集したところ100人以上の応募があったという。そこで入会希望者の作品を審査し、15名の会員で会がスタートする。8年間の活動で多少のメンバーの増減はあったが、基本20名くらい、そこに手塚治虫や『漫画少年』編集部、トキワ荘の住人が回覧に加わる程度であった。参加メンバーのリストには、赤塚不二夫、長谷邦夫、横山孝雄、横田徳男、高井研一郎、伊藤章夫、徳南晴一郎といった名前を見ることができる。