また、同時に。

 

「あの日以来、国をうしなって以来、姿を消したものは多かったが、なんといっても、ボクにとって、その最大のものは“文字”だった。ある日、先生が墨をするように、といった。教科書をだしなさい。こことこことここを消しなさい。戦争に関係ある文字、文章は、すべて消さなければならないのだ、という。ほとんど全ページにわたって、墨がぬられた。さし絵も消された。(中略)文字をおぼえ、読むことのよろこびを知ったばかりの一年生から、その文字がうばわれてしまったのだ。」(石ノ森章太郎「石ノ森章太郎の青春」小学館文庫)

 

終戦直後、子供向けの本が出版される余裕などあるはずもない。納屋にしまい込まれていた古い大人向けの雑誌をこっそり引っ張り出しては読みふけり、父の本棚から文学全集や哲学書を借り出したてはみたが、90%以上は理解不能の“文字”のかたまりだった、という。自分たちの読む文字が、読める本がほしかった。「だから、姉と二人で“雑誌”をつくりはじめたのだった」

家族の不幸、自身の体と心の傷、戦争の爪あと…。それらすべてが図らずしも人間と生命を描き物語を紡ぐ作家としての石ノ森章太郎の“種”となっていった。

そして、小学校を卒業するころ、章太郎少年に運命的な出会が訪れる。手塚治虫の『新宝島』だ。すでに刊行から3年ほどは経っていた本だが、自転車で片道3時間ほどもかかる石巻まで通うほどの映画少年だった章太郎は「絵が動いている!」と背筋がゾクゾクするほど感銘を受けた。「絵画を原点とする『漫画』が、紙の上に描かれた映画という『マンガ』になったのだ。」(石ノ森章太郎「絆 –不肖の息子から不肖の息子たちへ-」鳥影社)

昭和26年に石森中学校に入学。ある日突然、それまでも愛読していた『毎日中学生新聞』の読者投稿マンガを眺めているうち、ふと「この程度ならオレだって」との想念が湧き上がる。と、その熱が冷めぬままその日のうちに一枚のハガキに2コマ漫画を描く。そして投稿。そんなことをすっかり忘れていた一ヶ月後、入選者欄に思いがけず自分の名前を発見する。この入選が章太郎少年の運命を大きく変えていく。

厳格で教育委員長まで務めた父はマンガを認めなかった。入選と落選を繰り返しながらマンガへの熱を帯びていく章太郎少年に対し、ちゃんと勉強して大学に行くことを強く説いた。ときにはせっかく描いたマンガを破り捨ててしまうこともあった。そんな中でも姉の由恵だけは理解者であり続けた。大好きな姉にほめられたい一心で描いていたのかもしれない。のちにそう書き残している。

中学3年生になり、そろそろ『毎中新聞』だけでは満足できなくなり始めていたころ、読者の投稿マンガに大きくスペースを割いていた『漫画少年』なる雑誌を見つける。が、こちらはさすがに“専門誌”だけあって、最初から入選とはいかなかった。それだけにいっそう熱が入った。やがて、名前が、カットが、4コママンガが載りはじめる。

昭和29年、宮城県立佐沼高等学校に入学。後年、マンガ家としてあらゆるジャンルを描いた生来のあふれる好奇心を発揮し、美術部、音楽部、文芸部、新聞部、放送部、演劇部、柔道部…といくつもの部活に首を突っ込んだ。また『漫画少年』では投稿入選の常連となり、その“名声”を利用して「東日本漫画研究会」をつくり、正岡子規の句集から拝借した『墨汁一滴』なるタイトルの会誌を創刊する。メンバーは赤塚不二夫、長谷邦夫、高井研一郎、横田徳男といった顔ぶれが並んだ。それも百人くらいの入会希望者から厳選した人たちだった。

そんなある日、電報が舞い込んだ。「シコ“トヲテツタ”ツテホシイ」。憧れの手塚治虫から声がかかった。もちろん喜び勇んで上京した。とはいえ当時の交通事情である。今なら3時間半ほどの旅程を、12時間もかかりながら…。途中期末試験のため一時帰郷しながらもプロの仕事を(良くも悪くも)目の当たりにした。そのうち、投稿にも飽きつつあった『漫画少年』から初めての連載以来が飛び込む。ここでデビュー作『二級天使』が生まれた。黒澤明監督の『七人の侍』、ウォルト・ディズニー原作のアニメ映画『ダンボ』が日本初の日本語吹き替え映画として公開された年だった。

卒業したら上京しますので、ヨロシク。多芸多才なレオナルド・ダ・ヴィンチに憧れていた章太郎少年は、1〜2年くらいはマンガで稼いで学費をつくり、売れなくなったら大学に入ってジャーナリストか小説家を目指すつもりだった。高校3年生の夏休みにも上京した際に出会った寺田ヒロオに住むところを探してくれるよう手紙を出した。さがしました。安心してでてきてください。そんな嬉しい返事をもらいながら、姉だけに秘密を打ち明け、隠密行動をとっていた。なぜなら、姉を除いた家族の全員が、マンガ家になることーーーマンガを描くことに反対だったからだ。そんなもので生活できるわけがない。どうしても好きなら、大学を出てちゃんとした職業に就いて、趣味で描けばいい。そして、大学にしても出せる範囲は仙台、国公立に限る、という条件がついた。マンガを描くなら東京に出ないと無理だと思っていた章太郎は両親と衝突した。なのに、上京する日、ただひとり見送りに来てくれた姉の由恵は、これは母さんからの、これは伯母さんからの…と餞別を手に握らせてくれた。

東京都豊島区椎名町五丁目2253番地。西武池袋線「椎名町」駅から南西に12分ほど路地を縫った場所に「トキワ荘」はあった。少年から青年になろうとしていた章太郎は、テラさんこと寺田ヒロオからこのアパートに入るよう勧められた。すでに手塚治虫は退出し同じ豊島区雑司が谷の並木ハウスに居を移していたが、寺田のほか藤子不二雄のコンビが暮らしはじめており、この場所が寺田の主催する「新漫画党」の拠点となる。章太郎とほぼ同時に赤塚不二夫、鈴木伸一、森安なおや、つのだじろう、園山俊二も加わった。石原慎太郎原作の『太陽の季節』が公開された年だった。

※敬称略