ところが、章太郎の上京と時を同じくして、アテにしていた「漫画少年」が廃刊となってしまう。いきなり生活の道が絶たれることになる。にも関わらず、幸運だったのは、直後に講談社の「少女クラブ」から原稿の依頼があり、その内容も当時の少女マンガでは異色の「探偵もの」であったことだった。こうして『まだらの紐』『黒猫』と続き、3作目は少女マンガでははじめての4次元SFもの『幽霊少女』の連載だった。

 

トキワ荘での暮らしぶりは、関わった多くの“レジェンド”たちによってさまざまに描かれている。具体的な描写はそれらに譲るとして、おのおのが共に暮らした期間は意外に短いのだが、「青春」だった…と口々に謂わしめるほどの濃密な時間は十分にうかがい知ることができる。ただし、どの作家の回顧録よりも、青年・章太郎にとっては、忘れたくても忘れられない出来事がこのころにあった。いちばんのファンであり理解者であった姉・由恵の死である。

姉の由恵は、章太郎の上京から1年ほどのち、身の回りの世話と病気療養も兼ねてトキワ荘で同居を始めていた。その日の午前中、持病だった喘息の発作が出た。いつもより症状が重かったことから、章太郎は赤塚不二夫、水野英子に付き添われて姉をかかりつけの病院に連れて行く。入院したことで症状が落ち着き、ホッとした章太郎は2人を映画に誘った。しかし、虫の知らせだろうか、2〜3本立て上映のうち1本を見終えると帰路につく。そしてトキワ荘に戻った3人を待っていた赤塚不二夫の母(当時トキワ荘で同居していた)から由恵の急死を伝えられる。症状を抑えるためにモルヒネを過剰投与された結果のショック死だったという…。

章太郎のショックは計り知れない。さまざまな「後悔」が頭をよぎったことだろう。それは「このままマンガを描き続けるべきだろうか」という根本的な問に至る。考えた末に導き出したのは、このツラい環境から距離を取ることだった。昭和36年。巷では坂本九の『上を向いて歩こう』が大ヒットし、アメリカのヒットチャートBillboard Hot 100でも第1位を獲得するという海外進出があったものの、まだ個人による海外の自由旅行が許されなかった時代。出版社から原稿料の前借りをして「記者」の肩書で3ヶ月に渡る世界一周旅行に出発する。アメリカ、ヨーロッパ、エジプト、アジア…。マンガ家は辞めるつもりで出かけた。借金は帰国したら別の仕事で返していけばいい…と思っていた。が、今とは比べ物にならないくらい海外の情報が少なかった時代、その刺激は生来のクリエイター魂を奮い立たせずにはいなかった。

帰国から2年半後の昭和39年、今度は世界から日本に注目が集まった東京オリンピックの年、『サイボーグ009』の連載が週刊少年キング誌上にて始まる。きっかけは世界旅行中に偶然手にしたアメリカの雑誌「LIFE」の記事。そこで知った「サイボーグ」という概念に、章太郎の想像力は大いに刺激された。が、この新しい世界観を、日本の出版社はなかなか理解してくれなかった。アイディアには絶対の自信を持っていたのに、反応はこれまでのヒットの二番煎じを求める声が多かった。やっと決まったのも、「なんでもいいから描いてください!」というリクエストがあったからだった。そうなると気持ちは吹っ切れた。編集者がわからなくても、読者が面白がることを描こう。自分がエンターテインメントと思うことに、とことん突っ込んでみよう。いろんな国籍を持った集団ヒーローで行こう。それぞれが特技を持った、野球のような9人のメンバーにしよう。男ばかりじゃつまらないから、女性と、そうだ、赤ん坊もメンバーに入れちゃおう。それがライフワークとなった『サイボーグ009』のスタート。以降、50年以上、リメイクや新作が続くヒット作となった。

マンガ家であることに開き直った章太郎であったが、テレビ時代が加速してくことで、「特撮原作者」という新たな肩書が加わることになる。昭和46年『仮面ライダー』登場。バッタ顔のヒーローと「変身!」ポーズに、子どもたちは文字通り熱狂した。さらにアシンメトリー(左右が非対称)という斬新なデザインであっと言わせた『人造人間キカイダー』、ハリウッドがリスペクトしたとも言われる『ロボット刑事』、5人の色で個性化したキャラクター設定が現在もアイドルグループなどに活かされている?『秘密戦隊ゴレンジャー』、キャラクターが進化するというコンセプトの先駆け『イナズマン』、変身する忍者のヒーローという今ならもっと外国人に受けそうな『変身忍者 嵐』などなど、次々とヒットを飛ばしていった。もっともテレビの限られた尺では思うように描ききれなかったストーリーも多かったようで、マンガ版ではより濃密な世界観を描き大人をもうならせる作品も多い。

さらに章太郎の活躍はヒーローものにとどまらない。持ち前の全方位的好奇心に動かされ、『テレビ小僧』や『がんばれ!!ロボコン』といったギャグもの、『美少女仮面ポワトリン』、『さるとびエッちゃん』といった女性キャラクターもの、『リュウの道』、『幻魔大戦』などのSFもの、『佐武と市捕物控』、『さんだらぼっち』などの時代もの、手塚治虫とのエピソードがあまりにも有名な『ジュン』などの抒情詩的実験作、『HOTEL』などの現代ドラマ、『マンガ日本の歴史』、『マンガ日本経済入門』などの学習マンガという新ジャンルの開拓にも実力を発揮。作品タイトル数は770、総巻数500、総ページ数は128,000ページを越える(40年連載が続いた『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が200巻だからその途方もなさがよくわかる)。

平成元年、手塚治虫の死去とともに「マンガは森羅万象を表現できる万(よろず)画である」として「萬画宣言」を行う。10年後の平成10年1月28日、還暦を迎えた3日後に逝去。奇しくも敬愛する手塚治虫と同じ60年の生涯であった。平成20年、「石ノ森章太郎萬画大全集」(角川書店)の刊行に合わせて、「一人の著者が描いたコミックの出版作品数が世界で最も多い」としてギネス・ワールド・レコーズに認定。没後20年、生誕80年を迎えてなお、石ノ森章太郎が生み出した、影響を与えた作品が、いまも日本のみならず世界中の読者を楽しませている。その時代を越えた活躍を肴に、早逝した弟の淳二、姉の由恵とともに、泉下で東北の遅い桜のようにゆっくり話の花を咲かせているのかもしれない。

※敬称略