等身大の戦うヒーロー『仮面ライダー』が誕生して、2021年で50年を迎える。
半世紀におよび、子供に、大人にと親子二世代にわたって愛されてきた仮面ライダー。
「変身」は仮面ライダーの代名詞ともなった。
仮面ライダーの他にも、石ノ森は数多くのキャラクターを「変身」させてきた。
そこに込められた思いとは何か。
「変身」する者たちは、何を語っていたのか……。
バッタの能力を持つヒーロー? これは企画当時スタッフ間で大きな議論になったという。「踏めばつぶれるバッタが主人公なんて…」というわけだ。異形の姿をした仮面ライダーはダークなイメージを持ち、放送当初は必ずしも人気という訳ではなかった。しかし2号ライダーの登場によって転機は訪れた。「変身ポーズ」の登場である。1号はバイクの疾走等、ベルトの風車に風を受けることで変身した。一方2号は、変身ポーズをした後、自らジャンプをすることによって、ベルトの風車に風を受けて変身する。これが当時の子供たちに衝撃を与えた。TVを見ていた子供たちはこぞって変身ポーズの真似をして、仮面ライダーごっこに明け暮れたのである。『仮面ライダー』が国民的ヒーロー番組に「変身」した瞬間だった。子供たちの熱狂的な支持を得て、仮面ライダーは平成、令和と現在もシリーズが続くヒーローとなったのだ。
TV版の仮面ライダーは変身ポーズで変身するが、石ノ森章太郎の描くマンガの仮面ライダーはそうではない。悪の組織ショッカーに改造された青年・本郷猛は、仮面をかぶることで「変身」する。それは改造手術によって、怒りと共に浮かび上がる顔の傷痕を隠すための仮面なのだ。心ならずも人間でないものに改造されてしまった哀しみを隠すための「変身」なのである。
本郷猛は元の人間には戻れぬという十字架を背負い、自らを誕生させたショッカーに立ち向かう。本来であれば悪の組織の一員となるはずだった仮面ライダーにとって、戦う相手はいわば同胞ともいえる改造人間たちである。死闘の果てに訪れる勝利は、決して快哉を叫ぶ喜びではない。そこにあるのは哀しみと虚しさだけである。心身ともに傷ついた本郷猛を慰めるのは一陣の風だけなのだ。
1号を皮切りに、2号、V3、ライダーマン、Xと「正義のヒーロー」しての仮面ライダーは浸透していった。そして石ノ森は、ここで突如「アマゾン」というキーワードを持ち出す。仮面ライダーは元々、公害問題などをはらむ「文明」に対し、本来の姿である「自然」への回帰をコンセプトにしていた。獣然とした姿を持つアマゾンは、そのもっとも象徴的なイメージといえる。しかも得意技は噛みつきやひっかきであり、変身前の姿は半裸でターザンを思わせる。
人間はもはや文明なしには存在し得ない。しかし過度の文明礼賛が、人間ばかりか地球を壊す前に、原点、自然を見直すべきなのではないか…というアンチテーゼが、アマゾンの「変身」には含まれている。
石ノ森自身によってマンガが描かれた、最後の仮面ライダー。原点に回帰し、よりバッタを意識した有機的なキャラクターデザインである。異形と呼ぶにふさわしいその姿は生々しく、改造された哀しみがより深く伝わってくる。
主人公の南光太郎と、まるで同じ存在として誕生し対峙する親友の秋月信彦。変身後の姿はTV版と異なり、彼らはまったく同じ姿で、より表裏一体を思わせる。抗えぬ運命に翻弄される二人の戦いは世界を滅亡寸前にまで追い込み、悲劇的展開を見せる。最後に生き残るのは南光太郎か秋月信彦か。その結末に未来を読みとるか、絶望を見るか。文明と自然、善と悪、光と闇。生きていく中でどちらからどちらへも「変身」しうる人間を描いた作品と言えるだろう。
なお仮面ライダー生誕50周年企画の一つとして、30年以上の時を経て『仮面ライダーBLACK SUN』と改題してリブートされることが、2021年4月3日に発表された。どんな形で新たな「変身」が語られるのか、お楽しみに。
『仮面ライダー』の誕生からほぼ1年後、世間の「変身」ブームを受けて、『変身忍者嵐』は誕生した。いわば仮面ライダーの時代劇版である。オートバイは馬となり、改造人間は化身忍者となった。
忍者の術のひとつに変わり身の術というものがあるが、それも一種の変身であると言えるだろう。忍者と変身ヒーローは相性が良いのかもしれない。
主人公のハヤテは、父親によって脳に針を打ち込まれ化身忍者となった。刀の鍔鳴りの共振によって脳が刺激され、先祖返りともいえる「変身」を遂げるという設定である。血車党に父親を殺されたハヤテは、父の仇を討つために首領の魔神斉を追う。
『変身忍者嵐』は当時、出版社の異なる二つの雑誌に連載された。それぞれ微妙に設定が異なる上、全く異なったストーリー展開を見せる。同一作家によるアナザーバージョンの同時連載はかなり稀有な例だと思うが、これも当時の変身ブームの勢いを表している。この二つの「変身忍者嵐」を読み比べてみるのも一興だろう。全く異なるラストシーンは驚くこと必至である。
身体の半分が赤、半分が青のアシンメトリー(左右非対称)。さらに内部メカが透けて露出しているという奇想天外な姿で登場したキカイダー 。ややグロテスクともいえるその姿に、ある人はTVで見たとき衝撃のあまり吐き気をもよおした、という逸話もある。
光明寺博士に造られたジローは体内に良心回路を備えている。しかし、その良心回路が不完全であったがために、「変身」した後の姿はいびつで、左右非対称のものになっている。青が善、赤が悪を表すそのボディーは、石ノ森がテーマにしつづけてきた人間の二律背反性…善でもあり悪でもありうる…を体現した姿なのだ。ジローは不完全な良心回路を持たされたことで人間に近くなり、結果的に人間と同じように善と悪の間で苦悩することになる。敵のダークは、ロボットを兵器として扱う死の商人である。ダークの支配者プロフェッサー・ギルにとって、良心回路を持つロボットは邪魔な存在でしかない。次々と刺客のロボットを送り込む一方、光明寺博士の脳を移植したハカイダーをも誕生させて、ジローの破壊を目論む。
マンガ版では、TV版では未登場となった第三のキカイダー ・00(ダブルオー)も登場。死闘を繰り広げる心優しき人造人間・ジローに待ちうける最後とはーー。想像を絶するラストシーンは発表当時、読者の反響も大きかった。
世は「変身」ブームまっただ中にある1973年。『仮面ライダー』シリーズに継いで昆虫(蝶)がモチーフのヒーローである『イナズマン』が誕生する。しかしこの作品で描かれる「変身」はメタモルフォーゼであり、生物学上の変態なのである。
主人公・風田三郎はサナギマンを経てからでないとイナズマンには変身できない。第1段階として変身するサナギマンは、見た目も地味でいわゆるヒーローのイメージとは程遠い。サナギマンは防御力に特化しており、戦闘力はさほど高くはない。その段階を踏まえないと華やかさと強さを兼ね備えたイナズマンには変身できないのだ。
サナギの期間を経て飛び立つ蝶に、人間の成長をなぞらえることもあるが、一足飛びに強く華やかに変われないという自然の…そして石ノ森のメッセージを感じとれるだろうか。
2段階の変身は、のちに平成仮面ライダーシリーズの『仮面ライダーカブト』でも採用されている。
『イナズマン』の連載は『人造人間キカイダー 』と同じ雑誌で行われ、掲載時期も重複している。当時の読者は一冊で二つの「変身」を楽しめたのである。しかも『イナズマン』にはキカイダーが登場するエピソードも存在する。
いまも続く「スーパー戦隊」シリーズの始祖となった『秘密戦隊ゴレンジャー』。当時すでに人気を博していた『仮面ライダー』と異なる点は、チームであること、そして人間が強化スーツとマスクによって「変身」することである。それぞれの個性は違えど、ゴレンジャーの5人は手を組んで戦うために集まった同志であり、チームワークで敵に立ち向かう。その物語と彼らの「変身」にはどこか明るさが伴うのも、そのコンセプトが影響しているかもしれない。
赤、青、黄、桃、緑、5色のコスチュームに身を包んだ彼らが戦うのは黒十字軍であり、メカを駆使した派手なスパイアクションが展開した。色をモチーフにするという発想は『人造人間キカイダー 』をより発展させたものだろう。キカイダーは正義と悪を青と赤で表現したが、ゴレンジャーの5色は各人の性格を端的に表している。赤は情熱、青はクール…といった具合である。
ちなみに石ノ森のマンガでは、連載時途中から『秘密戦隊ゴレンジャーごっこ』となり、内容もゴレンジャーに憧れた子供たちが“ごっこ”遊びをしているというギャグマンガに「変身」した。
城東学園シネマ研究会でオリジナルの特撮ヒーロー『グリングラス』の映画を撮影しているときに「事件」は起こる。部長の椿三太郎の生命が謎のロボットによって狙われ、架空のヒーロー『グリングラス』がスーパーパワーを発揮して大活躍したのだ。単なる着ぐるみであるはずのグリングラスがなぜ…?
近未来の世界を舞台に大きな陰謀が絡み、謎が謎を呼ぶストーリーが展開する。
物語の肝は誰がグリングラスに「変身」しているのかわからないことだ。ここでも石ノ森は新たな「変身」のアプローチに挑戦している。
グリングラスに「変身」するのは誰なのか?「変身」してまで果たす目的とは何か? SFでもあり青春学園ドラマでもありサスペンスでもある、石ノ森ならではの作品だ。
当時は高橋留美子、あだち充(敬称略)をはじめとしたラブコメ漫画全盛の時代ーー、石ノ森はそのテイストも作品に取り入れている。
酔いどれ顔の下には鉄の仮面…。『仮面ライダー』の誕生から3年、石ノ森は新たなヒーローを創造した。その名は『鉄面探偵ゲン』である。
警視庁刑事・十文字元(ともんじ ゲン)は世間を騒がせている怪盗鉄面クロスを追っていた。しかし敵の策略にかかり、皮膚に食い込み二度と外すことのできない鉄仮面を被らされてしまう。それは怪盗鉄面クロスが顔を見られないように被る仮面と同じものだ。つまりそれは怪盗の身代わりとなってしまうことを意味する。
二度と外せない仮面を被せられたゲンは、元々の顔そっくりのリビングマスクを作り、普段はそれを被って探偵として生活を送っている。素顔が仮面に覆われ、その仮面の上に、人の顔のマスクをかぶって変装するというパラドックスだ。「人はみな素顔を隠して生きている」というメッセージが込められた物語でもある。
ゲンはいざという時にはリビングマスクを外して行動する。それは一見「変身」のように見えるだろう。しかし、実情は高価で貴重なリビングマスクを破損しないようにするためだったり、ゲンだと知られないようにするためだ。
石ノ森の描く「変身」は、この作品に限らず、どこか哀しみを感じさせる。
顔の傷を隠すために変身する『仮面ライダー』、変身後のグロテスクな姿を恥じるロボットを描いた『人造人間キカイダー 』…。
石ノ森にとって「変身」は決してカッコいいというだけの単純なものではないのである。
石ノ森はこの物語を『酔いどれ探偵 鉄面クロス』と『鉄面探偵ゲン』という二つのタイトルで発表している。それは掲載誌が異なっているためだが、主人公や世界観は全く同一のものである。
「だれか」によってそれぞれ特殊能力を与えられた少年3人組が『怪人同盟』を結成し、刑事と手を組んでさまざまな事件の解決に挑む。主人公・小政竜二は、思い描いたものに「変身」する能力を持つ。それは石ノ森の代表作『サイボーグ009』の007の能力と同様のものだ。小政竜二は、予知能力を与えられた知的な計七夫、大柄な体格で怪力を与えられた大山五郎とともに、3人でチームを組んで悪い大人に立ち向かってゆく。
その場の状況に合わせて臨機応変に変身する姿は、若者ゆえの思考の柔軟さも感じられる一編である。
石ノ森はこの作品が発表された12年後に続編となる『怪人同盟 恐怖植物園』を発表している。石ノ森にとって思い入れのある作品であることの証左だろう。
地球に住む「人間(マン)」と月に住む「魔物(スペクター)」は、過去の争いからそれぞれ別の星で暮らしていた。だが、一部の魔物たちは、月を逃れ、地球で100人の血を吸い「人間」になることを目論んでいた。彼らは、罪を犯したためにけものの姿に変えられてしまった者たちである。「人間」に「変身」することで魔物世界の管理下から逃れ、咎から解放されるという野望を持っていた…。
ヒーローではなくロマンス要素もある短編のSF作品だが、今回おまけにご紹介。
己の欲のために「変身」することを望むのは人間も同じかもしれない。