そのお話を聞いて、僕も読んでみたのが、かれこれ20年近く前のこと。
狂犬病の犬を市が斬りつけるところから始まる物語は、田舎浪人を市が成敗するまで、狂った女や市に纏わりつく孤児の少年、許婚を殺害しようとする呉服問屋の娘と番頭、これらの登場人物たちに照りつける、ジリジリとした太陽が全編覆っています。
人物は皆汗をかき、べったりと張り付くようなジメジメとした蒸し暑さが読者にも伝わり、江戸時代の夏とは、きっとこういう風情なのだと、萬画で体感出来るほどなのです。
孤児の少年の扱いも絶品で、犬を斬ってからずっと市を追いかけ、「もう何も斬らねぇから、帰れ」と言っても居座り続ける。
市が昼寝をしている間は、虫を殺し、仲良く歩いている親子には殺した蛙を投げつける。
説明はなくとも、そこできっとこの少年は孤児なんだと感じさせてくれます。
市は仕方なく、飛んでいるトンボを真っ二つに斬るのですが、まだ帰らず。田舎浪人が金を盗むため、ウナギ売りを殺害したのを目撃した少年が、市に告げ口をします。そこへ訪れる浪人。
市を安心させてから斬りつけようとするが、あっという間に、市の刀で斬られてしまうのです。
あれほど居座った少年も、その光景に逃げるように去って行きます。
あれほどしつこく市に纏わりつかせていたのは、少年が走り去る背中を描くためだったのだと感心しました。
浪人も含め、淡々と斬りつけます。その無表情が逆にリアルで、蒸し暑さと表裏一体する狂気を描きだしています。
ただ、淡々と斬っていた田舎浪人も、市に対する時だけ眉間にしわを寄せて斬りつける演出も、目立ちはしませんが、夏のスイカにかける塩のような隠し味になっているのも、石森ならではのテクニックではないでしょうか。
このエッセーを書いただけで汗ばんだのは、きっと『狂い犬』を読んだせいだと思っています(笑)