<自然>

日本人独特の感性

たしかに唯一絶対の神様は戴いていないけれど、逆にもっとしなやかな感性で神というか自然とつながってきたんじゃないだろうか。日本人独特の感性の底流には、自然のなかに八百万の神を見ていたアニミズムの文化があると思うからだ。「自然と共生」「地球に優しく」なんて今さら声高に叫ばずとも、日本人にはそういう感性と文化が深いところに根づいているはずだ。(※1)

掌編『小川のメダカ』でも語られているように、石ノ森の育った宮城県北部登米市(当時は登米郡)は自然あふれる環境で、現在も農業が盛んな土地柄である。また自然にまつわる民間伝承も数多い。そんな中で育った章太郎少年には、山にも、田にも、かまどにも神を見る感性が備わったのだろう。

<科学>

自然界の頂点に君臨する人間?

西欧文明が限界を迎えてしまったのは、自然界の頂点に君臨する人間が科学の力で精神まで進化できると考えてしまったからじゃないだろうか。
(中略)
火星を地球化できるような最先端へ科学が進歩しても、同じ速度で人間の精神が進化するわけじゃない。精神の進化は生命に対する慈しみや思いやりの心をどれだけ深く感じられるかということじゃないだろうか。それには、人間も自然界の一部に過ぎず、動物や植物と同列の存在だということを意識する必要がある。それは近代科学のやり方では生まれてこないと思う。(※1)
=豊かな自然環境と、あふれんばかりの知識欲でさまざまな本を読み漁った少年時代を経て、90日間に及ぶ海外旅行で西洋の生活に生でふれた経験から導き出された感覚…。バッタの顔にモチーフを求めた『仮面ライダー』も、そんな「人間が自然界の頂点」という風潮に対するアンチテーゼと言えるかもしれない。

科学は光と闇のグラデーションを超えられない
人間は、矛盾に満ちたパラドキシカルな存在だ。愛と希望と勇気に満ちた光焔と、狡猾で卑怯で闘争的な暗闇を誰もがあわせ持ち、つねにそれが拮抗している。その集合体が社会であり時代なんだから、どんなに科学が進歩しようと光と闇のグラデーションを超えてバラ色に染まることはありえない。(※1)

石ノ森の作風は単純な勧善懲悪のスタイルを取らないことで知られる。SFや機械化されたヒーローを描きながら、きわめて人間的な“善と悪のはざま”で揺れ動く主人公たちに共感してしまうのは、科学を盲目的に礼賛しない作家の精神によるものだ。

※1=不肖の息子から不肖の息子たちへ 絆/NTT出版 鳥影社
※2=学習研究社「高1コース」1979年
※3=「風のように」