生まれた時、祖父はもう死んでいた。酒屋だったが、一滴も飲めなかったよ、と祖母が話してくれた。父の弟、叔父も、仏壇の写真でしか会っていない。彼の読んでいた医学書らしい本の余白に、落書きがあった。当時の流行りだったのだろう、夢二調の細面の女性の顔と一緒に、骸骨なども描いてあった。お前は叔父さんに似たのかもね。他に絵の好きな家族もいなかったから、後によくこう言われた。
終戦間近。三歳下の弟が死んだ。食料事情も悪く、良薬も乏しかった。その為のあっけない死だった。息をひきとる二、三日前、床から起き出した弟が家の中を走り回った。もう良くなったよ。ローソクの火は、燃え尽きる直前に一際明るく輝く。ある種の不思議さと共に、今でも時折、その駆け回る弟の姿が、脳裏を過ぎる。まだ、たったの四歳だった。中学生の時、祖母が死んだ。早くに連れ合いを失くしたせいか気が強く、私の母とはよく、例の“嫁姑のいさかい”を起こしていたのだが、長の患い(癌だった)の世話は、その母が一切していた。子ども心にも感概は複雑であった。死期が迫ると、床の周辺には“死の匂い”がたちこめた。
この前後にも、幾つもの死に出合っている。親戚のおにいちゃんが、戦場から休暇で帰り、裏庭の樹陰でギターを弾いた。並んで腰を下ろし、一緒に唄った。新緑の五月。そして枯れ葉の秋、戦死の報せを受けた。船が爆撃で沈んだのだ、と言う。海軍の水兵だった。近所の“名家のお嬢さん”が、入水自殺、という事件も、静かな町を騒がせた。あんな上品でおとなしい女性が!? 失恋が原因だったと言う。
大嵐の翌日、林に遊びに行って、枝の巣から吹き落とされたらしい、死にかけている仔鴉を見つけた。家に連れ帰って介抱し、名前を付け、育てた。すっかりなついて、私たち兄弟姉妹のいい友達になった。ところがある日、突然死んだ。田ンぼに撤かれていた鼠退治用の毒団子を啄いばんだらしい。ボール箱に入れ、花をリボンで結び、川に流し、泣いた。
姉の死は、最も衝撃的だった。高校卒業と同時に、マンガ家になるべく上京した。「トキワ荘」というアパートで暮らして二年め。たまたま故郷から訪ねてきて、そこで死んだのだ。小児喘息という持病はあったが、死因は心臓麻痺である。二十三歳、私は二十歳だった。
そもそも、私がマンガを描き始めたキッカケを作ったのは、この姉だった。終戦直後、物資は払底した時代、子ども向けの本など出版される余裕はない。字を覚え、字を見る事の楽しさを知った私は、飢餓感にも似た欲求から、父親の本棚を漁ったりしていた。姉が言った。私たちで“本”を作りましょうか。
暦の裏、ノートの残り、ワラ半紙。姉が文章を書いて、私はそれにイラストやマンガを描いた。それが始まりだったのだ。中学、高校とマンガを描き続け、投稿し入選し、やがて依頼されるようになる。だが両親は喜ばない。マンガなどで生活が出来る筈がない。そんな時代だったのだ。が、姉だけは味方をしてくれた。そんなに好きなのなら、続けなさい。姉がたった一人の読者だった。姉に見せる為だけに描いていた。
だから、突然の死は哀しみを越えていた。だから、涙を流し大声を上げて泣いたのは、灰になった木箱の姉を抱いて故郷に帰り、葬式を済ませてから、だった。
二十三歳の時、三ヶ月の世界一周旅行に出た。マンガ家を一生の仕事にすべきかどうか、悩みに決着をつける為だった。家族や友人がお守りをくれた。まだ “自由化”の前である。外国へ出掛けるのは大事だった頃である。期待より不安が大きい。事実、イタリアからフランスへ向かうプロペラ機は、嵐に出会って墜ちそうになった。揺れる機体の中で吐き続ける客、悲鳴を上げ祈る客、ふと窓外を見ると泡立つ海面が見える。スレスレの低空飛行をしていたのだ。ああ、これでオシマイなんだな、と思う。自分でも不思議な程に“冷静”だったのだ。死の恐怖、なんて案外そんなものなのかも知れない。
二十六歳で結婚した。子どもが生まれた。長男、次男。私は長い間不安だった。もし、この子たちが死んだらどうしよう。そして私は気付いたのだ。人を、なにかを、愛すれば愛する程、別れがつらくなる。死が怖くなる。だが人間は、宿命として、その二律背反を抱えて、死ぬまで行き続けなければならない。
現在。五十年の人生の間に、多くの肉親、多くの友人知人の死を見送ってきた。確かに哀しい。が、こうも思う。死という逃れられない事実がそこにあるのなら、ジタバタせずに受け入れよう。期待と不安を持って“波岸への旅立ち”。向こうの世界も、案外捨てたモノじゃないかも知れない、と。